ぎゃっこうの日

無益でも有益でもない

学が知れる

 

過去の自分と対峙する。

(突然書く気になりましたので)

昔の自分は幾分と陽気だったきがする。

それなりに遊び、それなりに悩み、それなりに恋をしていたと思う。

 

(それなりに恋って...笑)

 

車を買い、2年も乗らずに廃車にしたり

酔っぱらった見ず知らずの学生に水を買ってやったり

7時に出勤して、2時間ほど哲学の勉強をしていたり

 

決して順風満帆ではないけどそれなりの生活をしてた。

 

世の中や人を見る目もあったと思うし、

自分の秘密を話せる人にも出会うことができた。

 

 

そして、人間関係から何が生まれて、何が消えていくのかも知り

技術は反復の作業でしかないことを知り

自分は特別な人間でないことを知った。

 

 

分かっているけれど、

分かりたくない自分もどこかに潜んでいる。

息を殺して、ただ永遠に待っている。

 

 

 

 

 

知ることは罪である。

あえて反対の言葉で書きたい。

 

私は知ることで何かを失っている気がしている。

そして、それが大人になることだということも知っている。

 

知識はいらない、と、どこかのアーティストが言っていたけれど。

(実はもっとも敬愛しているアーティストなのだけれど)

経験しなければ気づかないことは、ずいぶん前に予測していた

もしくは誰かから聞いていたことだったりする。

 

 

「だもんだん、ゆーたみー」

(だから言ったでしょう?)

 

 

過去の自分はそうやって、位置を確かめていた。

だから、今の低落な私がいるのかもしれない。

 

そればかりは、もうどうしようもないのだけれど。

 

 

「知」という漢字は、

真っ直ぐに本質を矢のように言い当てるという意味らしいけど

私の言葉はいつも弱々しく、落下する。

 

10月20日